母の老いと向き合う日々の中で
私たちが義母の面倒を見ることになり、当初は遠くに住んでいた義母が何十年ぶりに近くに来たことで、うれしかったのでしょう、夫の高揚感が伝わって来ました。
今までできなかった分、親孝行しよう。そう感じられました。
義母の腰の調子が良い時は食事やお出かけ、旅行などタイミングを見てよく連れて行ったものです。
そんな時、車に乗る時義母に、優しくうれしそうに手を貸す夫の姿は印象的でした。
しかし、何年か経ち、腰の具合が良くなりかけた頃から認知症もゆっくり進んできていて義母からの過剰な要求が増え、夫もまた義母にぶつかる場面も増えて来ました。
「電話に出たくない」ということも。「できないことを言ってくるから困る。」「あまりにも呼び出しが多すぎる。」
以前距離感についてブログに書きましたが、私たちも変わりゆく義母にどう関われば良いのか非常に戸惑っていた頃のことです。
夫は義母の老いを目の前にして、どこか戸惑いながらも、何かを深く感じ取っているようでした。
今朝は空がとても気持ちいい!

隠せなくなっていく母の心
認知症が進むにつれ、義母は自分を隠せなくなっていきました。
怒りや悲しみ、寂しさ——それらが言葉になってあふれ出て、夫は夫で怒り、悲しみ、受け止めようとしても受け止めきれないもどかしさと戦っていたように思います。
母の“素の心”を目の当たりにするのは、想像以上に苦しいことだったようです。
昔の自分が感じていたお母さん像とのギャップに苦しむ。
親の老いを間近で感じ続けることのキツさ。
そんな中、夫の中で、何かが静かに崩れ、でも、変わろうとしているのを感じました。
夫が見た“自分の中の母”
母の言葉や反応に、夫は次第に違和感ではなく「似ている」という感覚を持つようになりました。義母のここが嫌だなと思うところが。私に「どうしてこういう思考になるかわかった。」とポツリポツリと話すようになりました。
思考の癖は、いつの間にか受け継がれていた!
母を介護する日々は、夫が自分を見つめ直す鏡になっていたようです。
H2:老いが映す心の鏡
義母が感情を隠せなくなっていく姿は、未来を映す鏡のようで、その姿を前に、夫は恐れを感じているようでした。
「自分が老いたとき、同じことを言ったりしたりするかも」——その言葉の重みが、私の心にも残りました。
「自分も、いつか同じようになるのかもしれない」
義母の変化を通して、夫は“老い”の現実だけでなく、
それは悲しみでもあり、同時に、自分を理解し始めた安堵にも似ているように思いました。「自分を苦しめてきた原因がやっとはっきりわかった。」と話していました。
H2:受け継いだ思考を超えて
恐れや苦しみを経て、夫の中に静かな決意が生まれていました。
「母と同じ思考の型を、完全には無理だけど、どうしていくのがいいかイメージが湧いた。出そうになった時、一歩踏みとどめられる。」
そう語る夫。受け入れ、乗り越えようとする決意のような表情でした。
今後どうなっていくのかは分かりませんが。
変わろうとする夫の姿に、私が感じたこと
母を介護することは、ただ支えるだけのものではありません。
心の中にも、長い時間をかけてお互いを見つめ直す機会が訪れます。
夫が静かに変化していく様子を見守りながら、
老いとは、終わりではなく“自分自身を新たに知り始める”ことなのかもしれないと感じました。
「介護」とは、ただ誰かを支える行為ではなく、自分自身と向き合う時間にもなっています。
介護には精神的に厳しい時もありますが、老いを身近で感じることができるからこそ、私たちも自分や家族の在り方を考え直し、今後の生き方についての大きなきっかけとなるように思います。
読んでくださってありがとうございました。 なな🍀

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